どんな状況からでも未来は自分で切り開くことができる。本当にやりたいことを自分に許可をすると宇宙からの祝福が待っている。
就職して3年目に、
大阪にある芸術大学の通信教育に通い始めました
閉鎖的な田舎で生まれ、育ち、就職した私にとって、初めて外の世界へ出たのがこのときでした
高校を卒業し、18歳で市役所に就職した1年目は、
人間関係に悩んで、毎日のようにトイレで泣いていました
父のススメで受けた公務員試験、大学受験を諦め、自分からなりたかったわけでもない職業についたうえに
誰のこともカゲで悪く言っている女の上司からは、
自分のこともかげ口叩かれていることを知っていました
当時は、教育委員会に配属されていて、
もう1人の男の上司からは、「先生たちが帰ったあと、夜の学校のプールに忍び込んで、一緒に泳ぐぞ」と持ちかけられ、執拗な誘いを断りきれず、そういったことに付き合うこともよくありました
かげ口を叩いたり、仕事のミスを私のせいにすることもあった女の上司と、
その上司が裏でどんなことを言っているかをわざわざ私に伝え、休みの日まで映画に誘ったり、もっと自分に甘えろと言ってくる男の上司の2人と、
こんなクソつまらない人たちに媚びを売り、仕事で自分の居場所を失わないようにしている自分自身には、最初からウンザリしていました
自分ではどうすることもできない悩みを抱えていました
しかし、そのときの人間関係の苦しみから得たことは大きくて、
その2人を変えることはどうせ不可能なのだから、
自分が変わるしかないと思うようになり、
トイレでこっそり泣いていた日々から、
少しずつ、考え方や、行動を変えていきました
たとえ、どんな嫌がらせをされても、
「ありがとうございます」
と返すように意識しました
感謝できる理由は、探せば何かしらあったので、
とりあえず言葉で発して、あとから理由を考えました
(汚い言葉を吐いたり、嫌がらせすることで、自分の身を削ってまで、私の魂を磨いてくれてありがとうございます など)
嫌な思いをする誘いは、しっかりと断るように心がけました
(私は、人の誘いを断ることが、大の苦手でした)
男の上司の誘いを断るようになってから、書類にハンコを押してもらえないなどの嫌がらせを受けましたが、
しばらく続けていると、だんだんその2人に、影響を受けなくなってきました
じきに、2人とも違う部署に異動して、
「あの2人は、いったいどこに行ってしまったんだろう?本当に存在していたのだろうか」
というくらい、
きれいさっぱり、私の世界から消えました
世界とはそういうもんなのだと
そのときにわかりました
いま思い返せば、
女の上司が異動するとき
振り返った2年間を感慨深く感じて
目に涙を浮かべながら
感謝の気持ちを伝えました
すると、その上司は、
「あきちゃん、市役所では、涙なんか流しちゃダメよ。その涙を、"甘い蜜"だと思う人たちがいっぱいいるんだからね。そういう人たちの思うツボよ。絶対ダメよ。」
と言われたのでした
この方はずっと、これからも、こういう世界に住み続けるんだろうなと思いました
そして、私は、もう2度と、そういう人たちには出会わない(出会えない)ことを知っていました
思ったとおり、私が異動して出会った市役所の人たちは、みんな、とびきり良い人たちでした
そして、人間関係で苦しんだ2年が終わる頃、
私は、課長にある相談しました
「仕事をしながら、大学に通わせてください」
すると、その課長からは、仕事に支障をきたすかもしれないという理由で「ごめんな」と断られてしまいました
しかし、私は、その課長が次の年に異動することを知っていたので、1年待って、
次の春が来る前に、大学に願書を出し、入学手続きを済ませました
翌年、新しく配属された課長には、
こんな風に伝えました
「大阪の通信制の大学に通うことにしました。夏と冬の週末には、スクーリングという面接授業があって、大阪に通うことになります。仕事を第一に優先するので、支障をきたすことはありませんが、スクーリングのために、お休みをいただくことがあるかもしれません。報告だけさせていただきます。」
内心、ドキドキしながら、
堂々と、まるでそれが当たり前のように言いました
すると、課長は、
「そういうのは・・・」
ドキドキドキドキドキドキ(心臓の音)
見切り発車で、さすがに判断を早まったかなと思いました
「そういうのは、どんどんやってください!!」
予想外の返事に、一瞬耳を疑いました
さらに続けて、こう言われました
「与えられた仕事をしているだけでなく、自分を高めるための勉学を自主的にすることは、視野を広げる、素晴らしいことだと思うので、個人的にすごく応援しますよ。もしも、電車代が足りなくなったり、何か困ったことがあれば、僕がかんぱするからね。」
最後の部分は、少し小声で伝えてくれました
嬉しかったです
小さい頃から、絵を描くことが好きでした
だけど、そのときの自分には、何の保証もなく、画家なんて目指すのは、とんでもないことでしたし
そんな道は、将来の選択肢にすら入れていなかったです
この時既に20歳、専門的な勉強もしてこなかったし、自分より絵が上手い人なんて星の数ほどいました
だけど、私は、絵を描くことを通して、
本質的な何かがつかめる気がしていました
そして、自分をもっと知れる気がしていました
何の制約もなかったら、こういう道に進んでみたいと、本当は、ずっと思っていました
大学に通い始めてから、いろんなことを、
スポンジのように吸収していきました
人は、本当にやりたいことを
我慢して、我慢して、我慢して、
飢えて、渇いて、苦しんで、
ある時、ひょんなきっかけで、
自分に許可を出して、
本当にやりたいことを選択できたとき、
水を得た魚のように飛び跳ねて、
人から見たら、そんなことよく出来るね!!
と言われるようなことが、いとも簡単に出来たり
(夏と冬、毎週末、伊豆下田と大阪を夜行バスや新幹線でひと月に4往復し、着いてその日に授業を受け、夜はネットカフェやカプセルホテルに泊まり、授業が終わったらトンボ帰りで、翌朝すぐ仕事 など)
そういうことが、むしろ喜びの中にいるような状態で出来ていました
スクーリングで出逢う人たちは、通信教育なだけに年齢や職業も幅広く、18歳〜80歳くらいで、
中には、目をキラキラさせたおばあちゃんなんかがいたりして
その方が、毎朝、ゴミを拾いながら散歩してるって話を聞いたから
私もマネをして、駅からスクールバスを使わずにゴミを拾って学校まで歩きました
毎日のスクーリングが本当に楽しかったです
迷わず日本画コースを専攻しました
岩絵の具と膠(にかわ)を絵皿に出して、左手のひらの上に絵皿を置いて、右手の中指で絵の具を溶いている時間は、とても豊かなものでした
絵を描くことに没頭して、何時間も経っているのに気づかず、体感覚ではほんの30分くらいに感じたり
して、あっという間に1日が過ぎてゆき
3日目で作品が完成したときには、全身の毛穴が開いていて、とても爽快でした
その絵には、そのときの自分のすべてがこもっていましたし、
没頭した時間と経験した空間は、
今でも私の特別な記憶の中にストックされていて、想い出そうとするとすぐに、そこにアクセスすることができます
あるスクーリングの最終日、いつものごとく、ゴミを拾って歩いていると、途中の河原の上で、
これまで見たこともないくらい大きな虹が目の前でかかっていきました
そのときの私にとって、
虹は"前兆"であり、特別な意味を持っていました
いつも、虹を見るときには、
「その道であっているよ〜!それでいいんだよ〜!」
と言ってくれているようで、
ベストタイミングに現れてくれました
その日、新幹線で家路に向かう途中、本の続きを読もうとして、
しおりを挟んでいたページをパラっと開くと、
その章のタイトルが
"虹"
でした
神様はいると思いました
こんなにも、偶然が重なるわけないし、
ここまでわかりやすくシンクロニシティを見せてくれてなお、疑う余地はありませんでした
その本には、うろ覚えですが、
"人が、神様との間に結んだ約束や、契りを忘れていないというしるしに、虹を見せてくれることがあります"
というようなことが書いてありました
今では、前兆やワクワクに従って生きるとすべてが上手くいくということがいろんなところで言われていますが
それは、私たちの内面と外側の世界は繋がっていて
大いなる何者かの意思と、自分の意思が一致するときに
ワクワクというインスピレーションに満ちた状態になり、その感覚がガイドラインとなりうるからです
本来は、シンプルに、そのガイドラインに沿って、人生を選択していけさえすれば、自分にとっての最善の道が開けてくると思うのです