自分らしく最幸の人生を創造する生き方のススメ

高卒、性別違和、田舎の実家暮らしだった私が、本当の自分で生きると決めて、やりたいことしかやってはいけないルールのもとに行動に移した記録。得意なことはライフデザイン。本当の望みを実現するために、自分の本音を知っていくこと。それさえわかれば、勝手に道は開いてゆける。

嫌いなものを嫌いと受け入れていくこと

自分の望む世界を軽やかに実現していくために

「闇を受け入れること」っていうことは

大切なポイントだと思うんだけど


これまで、

ずっと大きな感違いをしていたみたい

 


f:id:master25181:20161111205039j:image

 

 
「闇を受け入れる」って

「嫌いなものを嫌いでなくするように努力していくこと」と思ってたけど


・・・全然、違ったw




以前の私の考え方では、

嫌いなものへの反応は

自分の投影だと思っていて、


それはもちろん間違いないんだけど、


その抵抗が大きいほど

 

真摯に向き合い反応を取り除いていけば

より統合を促進し人間として成長できる


魂がどんどん磨かれると信じていて


自らわざわざハードルの高いことに挑戦したり

心地良いと感じる人だけでなく

 

みんなが避けるような人とも

深く関わったりすることで道を追求してきたりして


わざわざ苦しもうとするから

 

よく、修行僧みたいだねとか言われて 笑



その信念は、

あるときまでは役に立っていたけど

今はもう役に立たなくなったなと

 

あるときに気づいた

 

 
なぜなら、


自分らしく最高に幸せな人生の世界観を

デザインしていくためには


自分が心地良いと感じるものを

しっかりと認識し

【選択していくこと】が大切だと心底実感したから

 

 
好きがあれば嫌いもあるのは当たり前であって


好きを知るためには

対照的に

 

自分が何に対して嫌いを感じているのかも

自分でちゃんと把握していることが大切だとわかったから


嫌いという感情を排除しようとせず

それを宝に変えられることを知って


全部にYesを言うことが

必ずしも善意ではないことが

だんだんとわかってきた


理想論では、多分

 

聖人君子にでもなりたかったんだろうなw

 

嫌いを感じる自分を受け入れていなかった

 

 
でも

これは感覚レベルの話だから

どう感じるかって段階で

すべてに対して"快"を感じるなんて

 

絶対に無理な話で


"不快"な感覚をないことにして

感覚を閉ざしていると


どんどん本音がわからなくなってくる


本音がわからない

わかろうとしないということは

自分の人生の舵取りを放棄しているのと同じで


自分が何者かを見失って

 

人生そのものが

不正直さと嘘にまみれてくる


3次元の世界では、

ものごとは、いつも表裏一体で

あらゆる側面を持ってるのは当たり前


嫌いなものがあるのは

 

むしろ健全なことなのだ


と開き直ったのだ


-------------------
嫌いなものに抵抗することと
嫌いなものを嫌いと受け入れることは違う
-------------------


前提として


自分が好きと感じるものも

自分が嫌いと感じるものも


それを自分がどう感じようと


その存在 、

そのもの自体の価値は変わらないし

本来、影響を与えられない



存在レベルでいえば

その対象が何であれ

 

それはそれで完璧なのだということ



問題なのは


自分がそれを嫌いと感じることに対して

 

内なる裁判官が


「(それを)嫌いと感じてはいけない」


とジャッジしている場合・・

 

 

そこには【抵抗】のエネルギーが生じてくる


「〜してはいけない(不許可)」は

いつだって苦しみの元となる

 

 
どうして嫌いと感じてはいけないのか?


その裏には、


「冷たい人間にはなりたくない」

「道徳的に正しくありたい」

「善人でありたい」


という欲求や必要性が存在する


また、自分が嫌われたくないという

恐れがあるのかもしれない


何かに許可を出せないときというのは、

 

たいてい

もし、それを許可してしまったときには、

「自己の存在価値が危ぶまれる」と感じているのだ


思考は、

絶対になりたくない自分にならないために

それを避けようとブレーキを踏む


しかし、

自分が何かを嫌いなこと(ハートの感覚)を

頭が受け入れない限り

その苦しみは持続する


ハートが嫌いなものを

いくら頭で好きになろうとしても


それは、

到底好きにはなれないものなのだ・・


少なくとも、

「頭がハートを従わせることは、

感覚を死なせること以外には不可能」

ということは言える

 

それは、生きながら死んでるのと同じだ

 

  

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
自分の感覚に好きや嫌いがあっていい
〜ハートに思考を従わせる〜
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

自分の感覚

特に、嫌いと感じる感情や感覚を

ニュートラルに認めることは

真に闇を引き受けることに値する


ニュートラルに認めている状態とは、

 

「あ〜、私はこれが嫌なんだ」

と気づいている状態のこと


闇を引き受けることは

その存在を否定せず

その存在と共存するということ

 
嫌いという感情自体も

無くしたり

抵抗する必要はないのだけど、


自分が嫌な人間になりたくないために

嫌いな感情を認めなかったり

自分の正しさを主張しようとすると

 

分離や葛藤が生まれ

苦しみの原因の根源としてはびこる

 

 

ここで言う闇とは、

3次元の物理世界における表と裏の

 

自分の住みたいと思う世界の裏側のことである


肉体を持つ私たちは

 

どうしたって生と死が存在するように

光と闇を完全に分けて存在することはできない


闇を無くそうと努力して

 

外側から光を強く照らしても

無くなったと思った闇は

より一層濃くなってどこかに存在している

 

 
【抵抗】する注意がそれを強めているからだ

 

 
排除しようする行為自体は

まったくもってナンセンスである


どうせ死ねばみんな光に還るのだから

闇を消すことに時間を費やすよりも


この世界では

闇が気にならないくらい

 

 
自分にとっての光の側面を見出して

そこにフォーカスをあてていけばいいのだ


それは闇の存在

そのものを尊重したままに

まるっと包み込んでしまえることである


それが闇を引き受けて

自分が住みたいと思う世界で

幸せに生きていくためのコツに思う

  

 

------- ------- -------
嫌いな相手よりも、抵抗している自分、
なりたくない、最低な自分を1番最初に受け入れる
------- ------- -------

 

自分の感覚にウソをつき

 

偽善者を装ったり

本音を隠して不正直に振る舞うと

どうしたって不整合が生まれる


そこから創り出される現実なんて

出来損ないのアート作品ばかりだ


頭と心が一致せず混乱し

何がしたいか

どこに向かって生きているのか

しまいには、

 

立ち振る舞い方もわからなくなくなり

 

自身のあらゆる感情に葛藤する

 


自己存在価値を見出す必要性にかられて

嫌いなものに潔くNOを示していかないと


誤った意思伝達をして

相手に勘違いさせてしまうこともある


誰かを傷つけないというガイドラインのもとに

「私はこう感じる、こう思う」をしっかりと伝えていくことは

責任と愛のあるコミュニケーションだと思う

 

私はこの1年、

 

この点で反省することがとても多かった


たとえ、相手にうまく伝えられなくても、

自分が自分の本音を認識していることが

 

最も大切なことと言える

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
何にYESといい、何にNOというかは、
自分の存在したい世界を選択していくこと
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

何かにNOということは、


決してそれを裁いて切り捨てることではなく

 

 
その存在をありのままに認めた上で

 

"私はこう"を示していくことである

 

 

その行為は、むしろ敬意と信頼を含んでいる

 

 

本音とは裏腹に我慢したり

 

生半可に優しくしたり

 

良い人ぶるよりも

 

 

よっぽど誠実だし 

 

信頼していないとなかなかできない

 

 
その人の創り出している世界を信頼しているし

その人の強さを信頼しているからこそ言えるのだ

 

 
私が嫌だと感じることも
 
別の世界では好きだという人が必ずいる


それからもうひとつ、


闇に苦しんでいるように見える人でも

純粋な喜びからサポートできない限り

同情はそれを強めることを知り


「かわいそう」という目で見てはいけない

 

もしひとたびそうするならば


すぐさま注意をひっかけられてしまい

共依存のドラマが始まってしまう



闇を経験しているように見える人に対しては

それを乗り越えようとしている強さに

フォーカスをあてること


その相手に、

 

何か新しい視点や

 

アイディアを与えることは出来るかもしれないが

 

それを強要したり、


「自分がその相手を助けたい」というエゴは

 

叶わないことを知ることは

 

ドラマにのみこまれないための心構えの1つ

 


いま、既に

 

相手が望む現実を創り出しているという視点で

その創造にすら敬意を払うこと

 

 
そうすれば、自ずと勝手にシフトしていく

 

 

f:id:master25181:20161111213224j:image

 

 

 

決して聖人君子になろうとすべからず



自分の本音に対しては

 

いつだって許可を出していくほか

 

選択肢はない

 
それが自分の頭は到底追いつけない

ハイヤーマインドの望みを実現する

最短ルートであることには違いないからだ

 

真の他者奉仕とは

他者奉仕をするときに忘れてはいけないこと


それは、【自分の幸せを通して行う】こと

 

 

まつだみひろさんの提唱する

シャンパンタワーの法則でもあるように

積み重なったシャンパングラスの
1番てっぺん(自分)からシャンパンを注ぐと


うまいことその下のグラス(周り)もちゃんと満たされていきますよね

もしも、自分を満たさずに
下の方(他人)から注いでしまったらどうなるか

ちょっと想像してみてください

 

 

自分はカラカラのまま

「施すことが良いことだ」とか
「それが自分の使命」と思い込んで

善かれと思って他人にせっせと注いでいたのに

いつしか分けていた瓶の中のシャンパンもカラカラになって

人に与えられるものも枯渇してくる


すると、以前与えてもらった人は、
もらえなくなった途端に

「前はくれたのに、もうくれないのか」とか

「自分は大切にされていない」

なんて思うようになってくる


自分が満たされて
自分のグラスがシャンパンでなみなみ溢れているときには

他者に対して喜びをもって
もっと施したり、与えたり

また、

「あえて与えない」という選択も
愛をもって行えるけど


もしも自分が枯渇しているときに
そんなこと言われてしまったら


「自分の身を削ってまであなたに与えたのに!」


ていう怒りがわいてくるかもしれません 笑


人に貢献したい

社会の役に立ちたい



という欲求は、

アドラー心理学でいう
幸せの3条件のうちの1つです


アドラーの幸福の3条件は、

・自己受容(自分が好き)
・他者信頼(人を信頼できる)
・貢献感(誰かの役に立てる)

です


本来、「他者奉仕」は、

自分の幸せのために行うものです


それを忘れてしまうと

「してあげている」というエゴがムクムクと育ち

それにより、優越感を得ようとしたり

自己価値を高めたりということを

無意識にしてしまいます


それゆえに、当然
人間関係や活動の成果が歪んできます


他者奉仕は、

無理に「しなければならない」ことでもありません

たまに、強迫観念のように誰かの役に立つことを望む人がいますが

そう感じる方は、もしかしたら
自己受容が十分に足りていないのかもしれません

 

また、

無意識に罪意識を感じていて、

奉仕することで解消していこうとしているのかもしれません

 

それ自体が悪いわけではありませんが

 

自己犠牲を伴う他者奉仕は

意図が不純であるため

 

結果的に

自分も他人も傷つけてしまうことがあるのです

 

なので、

根本的な取り組みとしては、


まず何もしていない自分でも価値がある
というところから

等身大、そのままの自分を愛して、満たして
溢れた分で、喜びから分かち合うこと


これが真の他者奉仕です

 

f:id:master25181:20161027092511j:image


私は、人の根底にある良心や愛を信頼しているので、

すべての人が自分の中心に意識を向けて

 

まず自分のために生きたらいいと

本気で思っています


十分に満たされたら

勝手に自分の活かし方や

命の使い方がわかってくると信じているのです

 

自分の命が正しいところに使われていると実感すること

未来のまだ起こりもしていない心配事ゆえに 

本当に生きたい人生を放棄して

毎日をただ消費してはいないか


今そこにいれば

未来の予測はしやすいかもしれない


現状維持の1番の価値は

なんらかの恐怖から身を守れる(と感じられている)ことなのかもしれない

でも、約束された安定なんて
実はどこにも存在しない

明日、勤めている会社が倒産したり
突然の災害が起こったり
事故にあって死んでしまうかもしれない

 

今を犠牲にして備えているその老後は
本当に幸せなものか

しばられた過去の延長線上に未来を描いて

それを手にしたときに
それが人生最高の幸せといえるか

人生最高の幸せを手に入れることが
私たちのミッションであり
唯一の仕事である


因果律で生きるより

自由律で生きよう


何の根拠もなく

これまでの制限にとらわれず

真っ白なキャンバスに描くように

人は想像できないことは決してかたちにはできない

また

想像できることは必ずかたちにできるようになっている

 

自ら見えない檻の中に入っていることに
なかなか自分では気づけないけど

常に自分にこう問いかけてみて


「他にどんな可能性がある?」


失敗を恐れるから何も出来ない

けど、大いに失敗しようよと思う


大抵のことは

きっとなんとかなる


案外恐れていたことってそれほど起きないもの

 

それに周りだって

自分が思うほどそんなにあなたのことを気にしちゃいない

谷底だと思っていたところに飛び込んだら
なんだ3cmかよ、トリックアートかよ!

みたいなことって結構ある

頭で恐怖を描いて妄想が膨らんでいて

それでもよくよく聞いてみると

「最も悪いことって何?」って質問に対しても


え、でも最悪でそれだろ?って感じで

別に大したことないじゃん♪て感じること多い


そんなことより

もっと大切なものを失うことに気づいてない

自分の価値をわかってないから

それをしてしまう


自分の価値を認めた分だけ

世界はこたえてくれる

お金も人も仕事も天運も全部


自分を卑下したり

いじめ抜いている人は

周りからそれと同じ量だけ

卑下させることを許してしまう


背中には「どうぞ蹴っ飛ばしてください」と書いてあるのと一緒

だから、

自分を本当に愛すること

大切にすることは絶対的に必要


自分を愛せていないのに

人を真に愛することもできない


だから自分の願いにこたえることを

まず最優先にしてほしい

 

 
日常にワクワクが足りていないと感じるならば

そろそろ今が外に飛び出すサインかも

 

 
何かに情熱を持って生きることは

とても幸せなことであると私は思う

 

 

自分の命がど真ん中で使われている感がしないなら

 

妥協せずに探求してみてよ

 

 

ぼんやりとした不安を抱えているだけで

 

なかなかやる気が起きないなら

 

とりあえず連絡くれたらサポートするから

 

 

最初の一歩は勇気を出して

 

自分で踏み出してみてね

 

 f:id:master25181:20161025204521j:image

 

大丈夫、すべてはうまくいっている!

 

 

メッセージはこちらから↓

info☆lrmasterkey.com

(ホシをアットマークに変えてね)

自然に身を委ねること

人間の最大の悩みの本質とは、
「本当は何がどうなったらいいのかわからない」
ということである。

 

それがわかってしまえば、スムーズに解決していける能力をもともとみんな備えている。

 

その本音は、言ってはいけないと思っていることかもしれないし、

自分が絶対になりたくないと思っている自分になることかもしれない。

 

まずはそれらをジャッジしたり、
抵抗することをやめて、受け入れていくことが必要なプロセスである。

 

裁いているのはいつも自分。

 

自分が経験したいことを決められないということは、その決定権を誰かに委ねることに他ならない。

 

自然に身を委ねることと、
惰性で生きることは、
まったくもって区別しなければならない。

自然とは、頭と心と魂の声が整合しているときに、理にかなってそれが現実に創造されていくものなのだ。それは自己の中心から全体に調和を生み出し、シンプルかつスムーズで美しいものだ。

 

惰性とは、過去の習慣性や思考パターンから、そのように流れてしまうことだ。
そこにはなんらかの偽りが存在し、不協和音を生じさせ、自分または他人を心地悪く感じさせる。
さらに、落胆や、諦めが混じっている場合もある。

惰性のまま、自然に委ねようとしても、意識の中が整合していない時点で、既に不自然なのである。

それを放置して、いくら宇宙に委ねるといって何もしないでいても、人生はほとんど変わらない。

頭と心と魂の声を整合させるのは、私の最も得意とするところである。

本音を理解するために自己を整えておくことは、
思考がすべき唯一の仕事。

 

本音がわかってしまえば、モチベーションは勝手に上がり、身体はいても立ってもいられなくなって自然と動くものだから。

 

その行動が本当に欲しいものをどんどん生産するし、その精度は打算を持って行うよりよっぽど高い。

 

自分が経験することを選択できるという責任は
時にめんどくさかったり、

罪悪感を感じたり、
苦しみととる人はいるかもしれないけど、

 

それを楽しみと捉えられたとき、
人生に随分と自由が増えるはず。

 

ちなみに、罪悪感は意識レベルとしてはとても低い波動数であるため、とっとと捨ててしまいましょう。

 

決定権を持つ意思を眠らせたままにしておく代償は、いつまでも、自分の人生を思うように生きられないことにある。

 

決めることの責任の放棄は、
自らを被害者の立場へと簡単に追いやってしまう。

本音に従っていれさえすれば、
自然に身を委ねることと、
意図的に生きることは両輪となって動くから、
どちらを先に意識する必要もない。

 
結論的に言うと、

心地良く、人生の舵取りをしながら生きるコツは
やはり、ほんとのほんとのほんとの奥に眠る

本音に従うことにあるということ。

それがいくら言いにくくても
醜いと感じても
蓋をしないで見てやって

恐れずに、やっちゃえ^^

 

f:id:master25181:20161024142004j:image

もともとひとつ

失敗したと感じたこと


誰かを傷つけたと感じたこと

誰かに傷つけられたと感じたこと


迷惑をかけたと感じたこと

迷惑をかけられたと感じたこと


愛してあげられなかったと感じたこと

愛を受け取れなかったと感じたこと


全部、ただの思い込み

しょせんすべては勘違い


心が不安定でもいい


押し寄せる不快感や恐れがあってもいい

その感情はあなたのものではないかもしれない


誰かのものを代わりに感じているのかもしれない


今ってそういうとき


だから

すべての感情に対して原因を探る必要はないし

抵抗する必要もない

打ち寄せる波を眺めるように

ただそのまま感じていればいい


そうすれば

いずれは去っていくから


抵抗するから苦しい

自分が原因だと思うから苦しい


もともとひとつを忘れてはいけない


あなたが流した涙も

至福溢れる喜びも


全部ちゃんと流れているから

みんなでちゃんと感じてるから

f:id:master25181:20161021180504j:image

f:id:master25181:20161021180533j:image

f:id:master25181:20161021180552j:image


だから

どんな感情がやってきても大丈夫

どんな感情を発信しても大丈夫


苦しいときはまだ見ぬ誰かを感じて祈ればいいし

幸せを感じているときはギフトを流していると思えばいい


どう捉えようと構わない

 

 

どうせ

 

しょせんすべては勘違いだから

真の忍耐強さとは愛である

ときに、他人に対してこうした方が絶対によいというものが見えてしまうことがある

しかし、そんなときに、「そのままで良い」と言ってあげられることは、真の忍耐強さである

忍耐強さとは、我慢することではない

我慢とは、我が慢心することであるが
忍耐とは、愛そのものである

どんな苦しい(と見える)状態も、
どんな不完全(と見える)状態も

それが完璧であるという物の見方ができることである

問題と見える視点があっても
そこに問題は存在しない

それは、諦めたり
見切りをつけることでも
なげやりになることでもない


忍耐強さとは、

「あなたがそれを経験したくて、
それを選択している」

という絶対的な信頼のもとにおける視点であり

「それ自体が芸術である」

という畏敬の念の現れである


放っておけなかったり
おせっかいをしたくなる心のことを

心が青いと書いて「情」という



「そのままでいいよ」

「変化したかったらしていいよ」

「あなたにはきっとそれができるよ」

 

 

いつか自分に子どもを育てるときがきたら

 

できる限り、この繰り返しで関わっていきたい

 

 

f:id:master25181:20161021134316j:image

 

 

昨日、突然「千と千尋の神隠し」を久しぶりに観たくなり、さっそくTUTAYAで借りて観ました

 

ヘドロのような神様を薬湯で洗い流して

溜まりに溜まったゴミをドボドボと引き出して

きれ〜いになってからの

 

「はぁ〜、よきかな・・・・。」

 

と言って去っていく川の神様のシーンが1番好きです(o^^o)

 

 

 

 

本音をとことん叶える

今日から10月に入りました

久々にブログを書こうと思います

  

いったんFacebookを手放してからというもの

人の感じてることや意見を目にすることが減り

自分の感覚が研ぎ澄まされるようになりました

 

 

そうなると

 

自分の感情・感覚を

他の人の宇宙と混同せずに

 

自己の中心や内側から湧いてくるものを

純粋に感じることができるようになってきて

 

「今、この瞬間の"私"の願いを叶えてあげていく」

 
 ということを妥協せずに過ごすことができるようになりました

 

 

これまでなかったくらい深く深く
ダイブしていく感覚は
 
音のない深海のディープブルーの中に
降りていくイメージに似ています

 

美しくて深い懐に包まれた

安心に満ちた感覚です

 

f:id:master25181:20161001091146j:image 

 

 

結局のところ、自分の願いがわかりさえすれば

人生の課題はほぼ完了です

 

 

「本当は何がどうなったらいいか」

 

これさえ自分の納得のいくこたえが見つかれば、

本当の望みが見つかれば

 

それを実現する能力はみんなもともと備えているからです

  

肚で思っていることと、頭で「まあ、このくらいでいいや」ということの違いが

 

現実を複雑にするのです

 

今、この瞬間の小さな望みさえわからずに

叶えられずに

 

いつ人生の望みを発見し

叶えていけるというのでしょうか?

 

結論としては、

目の前の小さな望みを知ることの積み重ねでよいということです

 

そういう過ごし方をしていたら

いろんなことが整合してきています

 

 

さて、今日は大阪行きの飛行機の中で

いまこのブログを書いています

 

友人の結婚式に向かっているところです 

  

 

昨日は、映画「八日目の蝉」を観て

号泣したあとに(この映画は私のインナーチャイルドに働きかけます)

 

気持ちよくコロッと寝てしまい

 

寝坊しました

 

 

飛び起きて羽田空港に向かったのですが

 

到着と同時に離陸して

間に合いませんでした

 

本当は宿泊とパックの便(東京-伊丹航空券+宿泊で33,400円)なので

 

正規券以外の飛行機は変更できないのは知っていました

 

買い直しの場合、22,000円を追加で支払えば次便の片道分を買えることも

 

搭乗に間に合わないので新幹線にしようかとも思いましたが

 

どうしても飛行機の気分だったので

ダメ元で交渉してみました

 

最初「申し訳ございません。宿泊とパックの場合は、こちらでは変更は出来ません。」とやはり断られたのですが

 

ネットで調べていた智恵を活かして「同様の前例を聞いたのですが、なんとかJALの次便に振替できませんか?ちなみに次の便は何時でしょうか。」

 

と会話を続けていたら

 

最初ダメだったのに、なんと、「次の便はJALANAも9:00発なので、JALのターミナルにわざわざ移動するよりは、ANAで振替ますよ^ ^」と、笑顔で無料で振替てくれました!

 

会話の展開が謎すぎでしたが

 

1本後の便に乗って、結婚式にも無事間に合いそうで

よかったです

 

f:id:master25181:20161001095800j:image